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バルト三国レコーディング日誌 |

2002/09/15 ご連絡皆様へ

      おはようございます。坂元@ビクターです。
      いつも大変お世話になっております。
      小生、明日16日から28日まで、リトアニアとラトビアに
      出張のため留守を致します。
      現地でも、メールは使える様、パソコンは持って参りますが、
      果たして無事に繋がるかは…??です。
      もしご連絡を頂いても、返信がないようでしたら、
      お手数をおかけ致しますが、
      会社の方に滞在先をお問い合わせ下さいませ。
      TEL:03−5410−7128
      FAX:03−5410−7147
      また、メールをお送り頂く際は、
      念のため、次の3つアドレスに
      同時に送って頂ければ幸いです。
      u_turn3@hkg.odn.ne.jp
      happyvoicejp@yahoo.co.jp
      u_turn3@hotmail.com
      宜しくお願い致します。とり急ぎ、ご連絡まで…。


09/18 みなさん、こんにちは。坂元@ビクターです。

      今、リトアニアの首都ヴィリニュスに来ています。
      今回は、ここ「リトアニア」と隣国「ラトヴィア」の合唱音楽を
      録音するためにやってきました。
      プランとしては、来年の1月にエストニアに録音に赴き、
      初夏には「バルト三国の合唱音楽」というタイトル(仮)で皆様に
      聞いていただけるよう、まとめていく予定です。
      どうぞ、その折は宜しくお願い致します!
      さて、「バルト三国」とはご存知の通り、
      北からエストニア、ラトヴィア、リトアニアを指しています。
      今、ぼくのいるリトアニアは、その最南部にあたり、
      ここヴィリニュスは、バルト三国の首都の中では、
      最も内陸に位置し、ロシア、ベラルーシ、ポーランドにも隣接しています。
      バルト三国は、1991年、ほぼ同時に当時のソ連から独立しました。
      ですから、国家としてはまだ10年ほどの新しい国ですが、
      その独立にいたるまでには、ソ連軍の「軍事介入」などにより
      多くの人たちが血を流し、生命を失ってきました。
      しかし、その中にあって、この国々の人々は
      「歌いながらの革命」といわれるように、
      あくまでも非暴力の姿勢を貫き、
      音楽を心の支えとして、人の心を繋いでいったといわれています。
      今回の録音にあたっては、
      この国の人たちにとって「うた」とは何だったのか、
      また、ぼくたちにとって「うた」が何でありえるのかを
      肌で感じ、考えながら、いろいろな作品に接していきたいと思います。
      録音は、いよいよ今日の夕方からスタートです。
      合唱団は「ヤウナ・ムジカ」という若い人からなる合唱団です。
      以前、宝塚の国際コンクールにも参加したこともあるそうです。
      マネージャーのアルギウスさんは、
      ぼくたちのために3つの録音会場を用意してくれていました。
      「その中で一番いい場所を使ってください」と。
      とても、感激!でした。
      結局は、街の中心地近くにある「アートセンター」のスタジオを
      使わせていただくことになりました。
      昨晩は、録音に備え、
      旧市庁舎で録音と同じプログラムでコンサートも開いてくださり、
      ぼくたちも聞くことができました。
      とても、繊細で、かつパワーも秘めた合唱団…。
      いまから、ドキドキ、そわそわしています。
      あっ、大切なことを忘れていました。
      今回は、合唱指揮者の松原千振先生、
      それからエンジニアの奥原秀明氏と来ています。
      (このパソコンから、どこからでもメールできるようになったのは、
      奥原技師のご尽力の賜物です。感謝!!)
      そんなことで、
      いよいよ今日からスタートです。
      どんなことになりますか…。
      きっと展開されるであろう、坂元名物、毎度の「七転八倒(?)」の様を、
      少しずつ、リポートさせていただきたいと思っています。
      もし、よかったらご覧下さい。
      では、行ってきます!


09/19 「レコーディング開始!」

      今回、この企画のプロデュースをお願いしている
      松原千振先生は、現在、東京混声合唱団の常任指揮者として
      ご活躍ですが、10年ほど前までは、北欧を中心に活動をされていました。
      このリトアニアへも、1980年を皮切りに、
      度々訪問されたとのことですが、
      特に、独立前後のコンサート・ツアーについては
      格別の思い出をお持ちです。
      1980年の旅行は、タピオラ少年少女合唱団に同行しての旅。
      サポート・スタッフの一員としての参加だったそうです。
      当時はもちろん、旧ソ連の中に組み込まれていたわけですから、
      街のあちこちで見たソ連兵の姿が忘れられない…とおっしゃいます。
      その後、先生は歌手としてまた指揮者しとして、
      88年、92、93、94年と
      相次いでエストニア公演を果たされます。
      88年は「ヘルシンキ大学男声合唱団」のメンバーとしてでした。
      特に、松原先生のご記憶に残っているのは92年1月の旅…。
      この時、すでにバルト三国の国々は旧ソ連から独立を果たしては
      いましたが、まだまだ「混乱」は続いていました。
      例えば電気。
      なんと、1月の最も寒い時期に暖房が効かない状態での生活を
      強いられたそうです。
      ぼくも昨年の同時期にエストニアに仕事で行きましたが、
      暖冬とはいえ、相当な寒さだったことを覚えています。
      いったい、どうやって夜は眠ったのでしょうか?
      さらには水道。
      どのホテルでも、夜の12時以降、翌朝までは一切の水が
      出なかったということです。
      これもつらいですね。。。。
      道には、雪掻きがされないまま残された雪が大量に。。。
      それがアイスバーンとなり、歩行すらままならない状態です。
      それでも、そんな過酷な環境にあっても、
      いえ、過酷な毎日だからこそ、
      人々は「うた」に「音楽」に飢え、そこに生きがいを見出していたといいます。
      松原先生が「ヤウナ・ムジカ」の客演指揮として招かれた
      93年暮れから94年新年のシーズンに開催された
      「ニューイヤーコンサート」では、2日間にわたって会場は超満員!
      松原先生は「うた」の偉大さを身にしみて感じられたそうです。
      ちょうど、その頃、日本はまだ「バブル」の残影の頃ですね。
      さてさて、そんなお話を伺いながら、
      昨日から「ヤウナ・ムジカ」の録音が始まりました。
      午後5時、ホテルに指揮者のアウグスティナスさんが
      迎えに来てくれました。
      彼は、1959年生まれの男性指揮者。
      ぼくより2歳年上です。
      彼の愛車はボルボ。
      中古で買ったらしいのですが、彼の自己紹介が冴えてます。
      I am a fresh driver. Please, be careful!!
      オイオイ、だったら迎えに来るなよ!!(笑)
      実は、スタジオは、ホテルから歩いて案外すぐのところにあるんです。
      でも、アウグスティナスさんがせっかく迎えに来て下さったので
      送っていただいたのですが、なんと、徒歩の倍以上の時間をかけての!
      「無事到着」と相成りました。
      夕刻のラッシュに加え、道が複雑に入り組んでいるこの街では、
      直線コースで行くことは至難の業で、裏道から裏道を
      ぐるぐる回ってたどり着くという状態なのです。
      午後5時半前、スタジオ到着。
      早速、われらが技師、HIDE(奥原氏の海外での呼び名)による
      セッティング&サウンド・チェックが始まりました。
      いわば、この時間がレコーディングの最初の関門。
      調整室でHIDEが当地のエンジニア3人と綿密な打ち合わせをしています。
      彼のリクエストで、スタッフが真剣に話し合い、また、トライを試みます。
      ぼくは個人的には、この風景を見ているのが好きです。
      HIDEとぼくは、今まで、アメリカ・ナッシュビル、ソウル、
      北京のスタジオなどで
      現地のエンジニアといっしょに仕事をしてきました。
      もちろん、彼にとっては、それは海外の仕事の一部分なのですが、
      すべてのスタジオでぼくは「ユージ、HIDEはスゴイな。
      どうしてあんな音が作れるんだ!」と陰口(失礼!)、
      賞賛の声を聞いてまきした。
      昨日も、現地のスタッフが、寄り添ってHIDEの行動ひとつひとつを
      見ていましたから、
      きっと同じ、陰口、いや賞賛を述べていたことでしょう。
      さてさて、そろそろレコーディングが始まります。
      スタジオには続々と歌手の皆さんが集合します。
      この方たちは全員がプロですので、
      昼間は、合唱団の仕事の他にも、教えていたり、他のユニットで
      歌っていたりと、多彩な活動をされているようです。
      昨日の日誌にも書きました通り、
      前日の夜、今回の録音と同プログラムのコンサートを聞いていたので
      登場したメンバーも「顔見知り」のような気持ちになります。
      でも、この「顔見知り」の感覚は、
      たとえ本当に初対面でも、どこに行っても同じですね。
      不思議なものです。
      さあ、全員そろいました。
      合唱団が、発声練習をはじめます。
      身体全体を包み込むようなハーモニーがスタジオに溢れ出します。
      暖かく、そして強さを秘めた歌声にゾクゾク、鳥肌が立ってきます。
      指揮者の厳しい要求にひとつひとつ応えながら、
      ファースト・レコーディングの作品がチョイスされました。
      サウンド・チェックも終わり、
      指揮者の顔にもLet's start!≠フ笑顔が浮かびます。
      いよいよ、第一曲「Gyvenima tas tures(Him,who has a life)」の
      歌声が流れはじめました…。


09/20 「CROSSROADS」

      リトアニアは15世紀の頃、
      バルト海から黒海にいたる広大な領土を持つ大公国でした。
      そして、ここヴィリニュスは当時の首都でもありました。
      16世紀当時リトアニアは、「ドイツ騎士団」に対抗して
      共同戦線を張り、それを殲滅にいたらしめるまで、
      ともに戦ったポーランドとの「共同国家」として成立していました。
      しかし、16世紀の後半、
      リトアニア公国直系の王・ジグマンタスが死去する頃から、
      次第にポーランドの勢力が強くなり、
      事実上、リトアニアはポーランドに吸収されるかたちとなりました。
      その後、18世紀後半のいわゆる「ポーランド分割」による
      ロシア領化以降、第二次世界大戦、そしてソ連からの独立に
      至るまで、常に「分断」と「戦い」の歴史を繰り返しながら、
      たくましく生き抜いてきた国です。
      ですから、文化的にみても、
      ここの街からは、どこからとなく
      「西ヨーロッパ」「ポーランド」そして「ロシア」の雰囲気が
      ただよってきます。
      それは、ここヴィリニュスが、
      内陸に位置しているとはいえ、
      かつての大公国が各地から商人や職人を
      受け入れ、文化・商業の「クロスロード」として
      存在していたからなのですね。
      松原先生のお話によると、
      音楽の面でもその特徴をみることができるそうです。
      つまり、14世紀以降の「カソリック」受容による
      カソリック教会音楽の影響。
      ポーランド領下における「ワルシャワ」を中心とした
      ポーランド文化の影響などなど。。。
      また、リトアニアの作曲家は、ほかの「バルト海諸国」と
      比べてみると、強烈な個性を持った人がいないという
      見方がある一方、
      作品自体は実に柔軟に、いろんな文化をとり入れ、ミックスし、
      それをまた新しい形で創作するスタイルをもっている
      …そうともいえるらしいのです。
      そういえば、レコーディングで歌われる作品を
      聞いていると、ロシア民謡のような旋律があったり、
      東欧のサウンドが響き渡ったり、
      また、あるいはドビュッシーのような作品に出会ったり、
      はたまた(HIDEいわく)初期のアメリカ・シネマ・ミュージック
      のような面白さがあったりで、
      実に多様な作品を楽しんでいます。
      …さて、録音も2日目が無事終了しました。
      最初は、お互い緊張して、硬いムードもありましたが、
      2日目ともなると、みんな打ち解けて、
      笑い声もあちこちで聞こえるようになりました。
      彼らの実力は相変わらず素晴らしく、
      わずか24人でありながら、
      (というか、彼らクラスは24人いれば何でもできるのですね、きっと)
      あらゆるタイプの曲に、みごとにサウンドをアダプトさせていきます。
      特に、2日間にわたって録音した「静かな夜に」
      というタイトルの作品は、繊細さと気品があり
      強く心に残るものでした。
      昨日も書きましたが、
      合唱団の皆さんは、いろいろ仕事をしています。
      なので、録音の開始時間は、午後7時。
      それから7・8曲を録音しますので、
      大体終了がいつも11時を回っています。
      それでも、皆さんが協力的に進めて下さるおかげで
      ぼくたちスタッフもとても気持ちのいいスタジオ・ワークを
      楽しんでいます。
      これで、15曲終了しました。
      いよいよ今日は、千秋楽(リトアニアの)。
      ぼくたちが到着した日にコンサートで聞き、
      胸が熱くなった「緑の森」の録音も残っています。
      まだ、2日だけですが、
      「うた」の持つ力を再認識しながら、
      「やっぱ、いいな」ってつぶやいています。
      ★ご報告とお知らせ。
      いつもの「どこへでも行ってやれ!」癖が出て、
      昨日は「在リトアニア日本大使館」に行ってきました。
      突然の襲来にもかかわらず、
      金安英造 臨時代理大使が応じて下さり、
      いろいろとお話をさせていただきました。
      大使は前任地が、ポーランドだったということもあり、
      このあたりの文化的な動向に大変お詳しく、
      松原先生がこの冬、早稲田大学グリークラブを率いて
      行われたここでのコンサートも聞いていらっしゃる
      とのことでした。
      尚、後日談というには、生々しいのですが、
      不肖、私坂元は、なんと大使館に「傘」を忘れて
      帰ってきてしまいました。
      行きのタクシーの中かな?
      なんて悠長に構えていたら、突然部屋の電話がなり
      フロントのお嬢さんが
      「ねぇ、あなた、大使館に傘忘れたやろ?
      ホンマだらしないなぁ。
      そやけど、大使館の人が届けてくれたさかいに、
      心配せんといてや」…と。
      また、やってしまいました。
      
      それからもうひとつ、空き時間を利用して
      「作曲家の家」というところに行ってきました。
      正式には
      「リトアニアン・ミュージック・インフォメーションセンター・
      アンド・パブリシング・センター」です。
      かなり立派な建物の中に、たくさんの人たちが、
      作曲家や作品の情報を求めにやってきていました。
      対応してくださった、Daivaさんは、
      ここのエグゼクティヴ・ディレクター。
      さすがに作曲家のことや、作品のことに熟知しており、
      熱心にエストニアの音楽をプロモートしていました。
      プロフエッショナルですね。
      日本で楽譜を出版する際、
      作曲家の情報や著作権のことなど
      相談にのって下さるとのお約束をしていただきました。
      帰りがけに、
      2階からは、ピアノの音が聞こえるのでたずねてみると
      なんでもパリ帰りのアーティストが、
      講習会を開いているとのこと。。。
      いわば、情報収集と情報発信を兼ね備えた施設なんですね。
      さすが、です。

      …今日は、久々に晴れています。
      せっかく、届けてもらった傘も必要なさそうですけど、
      大使館の方のお気持ちに感謝して、
      持ち歩きたいと思っています。


09/21 「無事に終わったよ!」

      今日は、ヨナス・タムリオニスさんという作曲家の方に
      お会いしました。
      もちろん、松原先生のお引き合わせによるものです。
      (ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが…。)
      タムリオニスさんは、1949年のお生まれ。
      現在、リトアニア・ミュージック・アカデミーで教鞭を
      とっておられるそうです。
      日本には、かつて「ソ連芸術アカデミー」の視察旅行で、
      札幌、東京にも旅をされました。
      タムリオニスさんは、
      作品の数が285を数える、極めて多作の作曲家です。
      その中でもコーラスの作品は約100近くにのぼるとかで、
      こちらでは、多くの作品が演奏されているようです。
      実は、タムリオニスさんの作品が、この秋、
      日本で初演されることになっています。
      11月24日(日)、新宿厚生年金会館にて。
      合唱は、早稲田大学グリークラブ、
      指揮は、もちろん、松原千振先生です。
      ラテン語と日本の古語がまざった
      極めて話題性の高い作品に仕上がっているとの
      裏情報を隣室に宿泊しているM先生より
      聞き出しました。。。
      みなさん、是非、足をお運びくださいね。
      ところで、昨日の昼食には、
      そのタムリオニスさんが、ぼくとHIDEも
      招待して下さったのです!
      連れて行って下さったのが、
      郊外にある「民族料理レストラン」…。
      当地に来て初めて、しかも最終日での体験でした。
      「赤カブのスープ」も実に美味でしたが、
      なんといっても圧巻は「セッペリン」とよばれる
      ジャガイモを蒸した「チマキ」のようなものの中に、
      ひき肉が入っている料理です。
      ひとりにふたつずつ出てくるのですが、
      大食漢のぼくでさえ、やっと食べられるという
      ボリューム!!そして、実においしい!
      いやはや感激でした!
      HIDEは録音に差し支えるから…と少し残していました。
      でも、タムリオニスさんのお話によれば、
      氏のお父様は、彼が小さいときに、
      この「セッペリン」をなんと8個もたいらげ、
      家族の賞賛を浴びたとか。。。
      ホント世界にはスゴイ人がたくさんいますね。
      さて、昨日はここヴィリニュスでの録音の最終日でした。
      おかげさまで、無事、全21曲を録音することができました。
      昨日は、まず、男声合唱からスタート。
      たった12人なのにその迫力も、ハーモニーも
      スゴイことスゴイこと。。。
      もう、圧倒されまくりです!
      なんか、どこが違うのかよくわからないくらいの強烈さです。
      残りの4曲は「混声」。
      昨日の日誌にも書きましたが、
      初日のコンサートできいていたく感激した
      「緑の森」もそうなのですが、昨日は、
      比較的シンプルな曲が残っていました。
      ですから、最後まで、ゆったりと聞かせてもらうことができました。
      最後の「OK」がでるとスタジオ内では歓声も!
      この風景も、どこでも同じですね。
      本当にとてもいい体験をさせていただきました。
      とにかく、ぼくたちの使命は、
      できるだけたくさんの方に聞いていただける様、
      いい作品(CD)を制作すること。。。
      アーティストたちの素晴らしいパフォーマンスへの「恩返し」は、
      それしかありませんものね。
      「世界中の人に聞いていただきたい」…心からそう願っています。
      さて、録音が終わって、合唱団のアルギスさん、
      指揮者のアウグスティナスさんと一緒に食事をしている時、
      教えていただいたのですが、
      「ヤウナ・ムジカ」は来年、数度にわたって海外に演奏旅行をするそうです。
      イギリス、フランス、イスラエル、イタリア…。
      それに、来年はリトアニアで「ソング・フェスティバル」も開催され
      30000人の人たちが、世界から集まるとのこと。
      きっと、ヨーロッパのあちこちで、
      また、リトアニアのあちこちで、
      彼らの素敵な歌声が響きわたることでしょうね。

      さて、今日から、ラトヴィアのリガに移動します。
      ここヴィリニュスからは約4時間、バスに揺られての旅となります。
      さて、かの地ではどんな人たちとそしてどんな歌と出会えるでしょうか?
      では、行ってきます!


09/22 「リーガ到着!」

     『バルト三国』(文庫クセジュ/白水社)によれば、
      「バルト三国の地質は「堆石の性質から、土壌は酸性であり、
      ほとんどがかなり痩せた土地である。したがってこの天から与えられた土地は、
      農業にはあまり適していない」とあります。
      なるほど、ヴィリニュスからリーガへ移動するバスの中から
      見える風景は、実に「荒涼とした」という表現に近い佇まいを見せています。
      はるかに続く一本道。
      古い民家。
      時おり姿を見せる、草をついばむ牛たち…。
      ここでは、本当に時間が止まった様。
      まるで、はるか昔から受け継がれてきた、
      「人の息づかい」すら今も漂っている…そんな感じがします。
      …さて、どんな旅でも、「別れ」はつらいもの。
      ヴィリニュスでの「別れ」も同じでした。
      ぼくたちが、午前10時発のバスに乗るというので、
      作曲家のタムリオニスさんが午前9時に、
      そしてアルギスさんとアウグスティナスさんが、
      9時30分にホテルを訪ねて来て下さいました。
      タムリオニスさんからは、ご自身の「合唱曲」を集めた
      CDをプレゼントしていただきました。
      残念ながら、今回はCDプレイヤーを持参していないので、
      ゆっくり聞くことができません。
      東京に帰ってからのお楽しみにしておこうと思っています。
      午前9時30分、ホテル発。
      アルギスさんとアウグスティナスさんが
      ぼくたちをバスターミナルまで送って下さいました。
      移動する車の中で、
      アルギスさんがぼくに来年、リトアニアで開催される
      The Festival of Nations≠ニいうタイトルの音楽祭の
      企画内容について話されました。
      これは、来年の11月20日から12月15日まで、
      ヴィリニュスで開催される「大音楽祭」で、
      現在、日本からの参加者、あるいはアイディアも
      募っているとのことです。
      詳細は、企画の書かれたペーパーをいただきましたので、
      もし、ご興味がおありの方がいらしたら、ぼくにご一報下さいませ。
      …アルギスさんとアウグスティナスさんと別れの挨拶のあと
      バスはリーガに向けて出発しました。
      午前10時を少し過ぎての出発でした。
      午後2時には到着の予定らしいのですが、
      「いや、そんなに早くは着かないなぁ〜」とは松原先生。
      途中は、冒頭に書いたように、
      ずっと一本道が続きます。
      景色を見たり、本を読んだり、ウトウトしたり…。
      途中、国境を越えるところで「パス・コントロール」を
      受けました。交通も、そんなに混んでいませんでしたし、
      バスの乗客も少なかったため(バスは結構大きいんですけど)、
      比較的スムーズに通過しました。
      それにしても、世界中どこへ行っても、
      「検問」の人っておっかないですね(笑)。
      でも、時々、ニャ〜って笑うものだから、
      また、妙におかしかったりで…。
      しかーし、この時すでに、午後2時を回っていたのです!
      やっぱ、松原先生のおっしゃるとおり、でしたね。
      結局、リーガに到着したのは午後4時頃。
      しかも、あとで知ったのですが、
      ここリーガとヴィリニュスとは1時間の時差もあり、
      こちらの時間でいうと、午後5時近かったのです。
      なので、日本との時差は6時間になりました!
      いやいや、なかなかの長旅でした、フーッ。
      ホテル到着後、隣の中華レストランで昼夜兼用の食事を
      とった後、たいして休むまもなく、
      翌日からのレコーディングの打ち合わせが始まりました。
      ホテルに合唱団のマネージャー フェルスバークさんと
      著名な指揮者 コーカスさんが来てくださいました。
      なにはともあれ、このマネ−ジャーさんの段取りが
      テキパキしていること、この上なし!
      次から次へ、アレレレレ、という間に打ち合わせ終了!
      最後に、ひとこと。
      「ホテルの水は飲むな」
      「外出するときは複数で歩け」
      そして、「夜のエチケットのご注意(!)」があり、
      彼らは、風の様に去っていきました。
      お見事!
      松原先生に教えていただいたところでは、
      フェルスバークさんは、実は、航空会社に勤務する
      合唱指揮者とのことです。
      なるほどね、どうりで、ツアー・コンダクターのノリだと思いましたよ。

      さて、いよいよ今日から「リーガ」での録音が始まります。
      今回は、教会でのトライアルです。
      合唱団は「アヴェ・ソール」、日本にも何度か
      来日している合唱団です。
      どんな響きを楽しむことができますか。
      乞う、ご期待です!!


09/23 「琥珀色の歌声」

      「本当に変わったなぁ…信じられない」
      ある時は街を散策しながら、
      またある時は食事をしながら、松原先生がおっしゃる言葉です。
      「何がですか」
      「何もかもが…」
      「フーン」
      「1980年に初めてリーガに来た時のことを考えると夢の様なんだよ。
      なにしろあの頃はまだ、ここはソ連。
      お店に行って見ることができるのは品物ではなくて、長い行列ばかり。
      それにレストランに行っても食べるものもなかった。
      ホテルでも水は出ないし、暖房もないし…」
      …ぼくは、そんなお話を伺い、
      録音の仕事をしながら、生の「現代史」を肌で感じています。
      リトアニア同様、このリーガの地にも「血の日曜日」事件がありました。
      1991年1月20日。
      独立運動の動きの中、旧ソ連軍の特殊部隊がラトヴィア内務省を
      攻撃、銃弾が飛び交い、6名が死亡、多数の負傷者を出しました。
      現在、彼らの魂を慰めるために、「稜堡の丘」には石碑が置かれているそうです。
      ぼくも帰国するまでに一度は足を運びたいと思っています。
      昨日は、少しだけ旧市街を歩きました。
      かつてワーグナーもこの街に住んでいたことがあり、
      この街ではその彼の足跡を辿ることができます。
      その彼が活躍した「リーガ・オペラハウス」や
      「ワーグナー通り」「ワーグナーホール」などなど。
      街のあちこちにワーグナーに因んだ建物などを見ることができます。
      ワグネリアンの方にとっては、たまらない魅力溢れる街でしょうね。
      そのオペラのすぐ近くに立っている塔が、ぼくにはとても印象に残りました。
      これは「自由記念塔」と呼ばれるもので、
      高さが51メートルあります。
      塔の上に立つ女神が3つの星を掲げています。
      それはこのラトヴィアが成る3つの地域、
      クルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレを表わしていて、
      3つが一緒になり、現在のラトヴィアが成立している
      ということを表現しているそうです。
      塔の基部には「祖国と自由に」と書かれています。
      1987年、スターリンによる大量流刑の犠牲者を
      追悼してこの塔の元に多くの人が終結しました。
      6月14日のことだそうです。
      そして、その日「バルト三国」の独立運動が本格化された…
      といわれています。

      さて、昨日は、リーガでの録音の初日。
      日曜日のため、録音のスタートは午後1時から。
      礼拝と礼拝の間を縫っての録音となりました。
      午後12時45分、指揮者のコカース先生がご子息の
      運転でぼくたちをホテルまで迎えに来て下さいました。
      このジュニア、往年の名バリトン ヘルマン・プライに
      よく似た超ハンサム・ガイ!
      今では、合唱指揮者としても活躍されており、
      「アベ・ソール」の指揮も担当されているそうです。
      車で約10分、録音会場である教会に到着。
      (教会名を伺うのを忘れてしまいました!失礼!!)
      会場にはすでに録音のアシストをして下さる
      ラトビア放送局のヴァリスさんが待っていてくれました。
      彼は28歳。ドイツのベルリンで学び、「トーンマイスタ−」の免許を
      取得して、故郷ラトヴィアに帰ってきたそうです。
      今回の録音は彼の放送局が用意してくれた「中継車」で行います。
      あまり広くはないのですが、
      設備はバッチリと整っており、ぼくとHIDE、そしてヴァリスさんの
      3人が、所狭しと車を陣取ります。
      さて、いよいよ、録音です。
      今日は、女声のみの録音。
      メンバーが続々と揃い、発声練習が始まります。
      その第一声に、不肖、坂元はドキドキ、ゾクゾクしてしまい
      鳥肌が立ってしまいました。
      なんという、美しく、深みのある声…。
      そう、まるでバルト三国で有名な「琥珀」のような声です。。。
      リトアニアの合唱団とはまた違った意味で、ショックを受けました。
      また、この教会の音響も抜群で、
      ヴァリスさんによれば、リトアニアで最も録音には適した教会であるといいます。
      教会での録音で一番トラブルのが「遮音」です。
      いくら、立派で響きが優れていても、
      外を通る車の音や、人の声が混入してきてはいい録音にはなりません。
      その点、この教会は、少し郊外にあることもあり、
      かなり静かで、いいコンディションで録音ができます。
      (といっても、時折、車の音が遠くで聞こえ、NGを出すこともあるんですが…)
      午後1時半からスタートした録音が終了したのが、午後4時半頃。
      実に3時間で6曲が完了しました。
      今日は、指揮を、大御所のコカース先生がつとめて下さいました。
      しかし、81歳とは思えない矍鑠とした佇まい!スゴイの一言でした。
      ところで、トーン・マイスターのヴァリスさん、
      あまりにもいい声なので、
      「歌もうたっているの?」と聞くと、
      「そうだよ、コカースさん(ジュニア)の合唱団のメンバーなんだよ」
      なるほど、頷けます。。
      それを横で聞いていた「大御所」がぼくに、
      「ユージ、お前もいいバスじゃないか!」
      とおっしゃったのに気をよくして、すかさず、
      「じゃあ、ヴァリスさんの合唱団に入れてくれる?」
      と聞いたところ、返事は…。
      「………」
      きっと、なんて図々しい奴と思ったのでしょうね。。。。
      教訓:人間、常に謙虚さを忘れてはいけません。
      「教訓」といえば、ジュニアの運転する車がお巡りさんに
      つかまりました。
      まさかぼくたちが大声で笑いながら乗っていたからでは、と心配しましたが、
      そうではないようです。
      どうやら、ジュニアがスモール・ランプを点灯するのを忘れていたらしいのです。
      これは、ジュニアの教訓でしたね(笑)。


09/24 「世界遺産」

      ぼくは、この地、リーガに来るまでは、
      ここが「世界遺産」に指定された街だとは知りませんでした。
      あまりにも、不勉強極まりない話…。
      昨日の昼間、リーガの楽譜屋さんに向かって歩きはじめた時、
      松原先生が「ここは世界遺産の街だから、ゆっくり歩いて見物していこう」
      とおっしゃったのですが、そろそろパン食に疲れ果て、
      どちらかというと「世界遺産」より「太田胃散」の方が有難かったぼくは、
      「そ、そうですか…」と力のない相づちを打ったのでした。
      ところが、いざ旧市街を歩き始めてみると
      それはそれは美しい建物に目を奪われました。
      リーガのシンボルでもある「大聖堂」や
      13世紀のはじめに建設された「聖ペテロ教会」などの前に
      佇んでいると、なにかぼく自身がタイムトリップして、
      中世世界に入り込んでいくような感じがします。
      ちなみに、「大聖堂」「聖ペテロ教会」とも、
      18世紀までに建てかえられたり、改築されたそうなのですが、
      それとても今から、200年以上昔の話…。
      ホント気が遠くなるようです。
      教会の中に一歩足を踏み入れてみると、
      そこにはドイツ語で書かれたたくさんのプレートなどを
      見つけることができます。
      それというのも、このリーガは13世紀末に「ハンザ同盟」に
      加わり、ドイツの影響のもと、街を発展させたという経緯が
      あるからなのです。
      また、音楽に関わることでいえば、
      どこの教会もとても立派なパイプ・オルガンを持っています。
      なかでも「大聖堂」のオルガンは有名なものらしく、
      松原先生いわく、バッハの時代では、ここのオルガンは
      ヨーロッパでも有数なものであったとのことです。
      完成は1883年、パイプ6718本、
      周辺の彫像は16世紀のものをそのまま使っています。
      ここまでくると、美術品ですね。
      午後は、予定通り、中心街から少し離れたところにある
      楽譜ショップ「ムジカ・バルティーカ」に足を運びました。
      なんだか荘厳な感じがするお店ですが、
      実は、そんなに大きくなく、かわいいおばあちゃんがふたりで
      お店を守っているショップでした。
      今、ラトヴィアでは国の仕事として「ラトヴィアの合唱曲大全集」を
      まとめている最中で、
      楽譜とそれに対応したCDが順次、発売されています。
      昨日見た段階では、楽譜が11冊されている様子でした。
      このプロジェクトにも我らが「アベ・ソール」もメイン・アーティストの
      ひとつとして参加しているそうです。
      それから、ぼくたちの仕事をサポートしてくれているヴァリスさんは
      この企画の「レコーディング・エンジニア」です。
      それにしても、「国家事業」というのが、なんとも頼もしく、羨ましいですね。
      …リーガの街を歩いていると、面白く思われるのが、街のあり様です。
      別にこれは、この街だけでなく、ヨーロッパの街では
      だいたいそんな感じなのですが、
      とにかく古い建物の中に、新しいショップやオフィスが入り、
      ある種独特のムードを醸し出しています。
      17〜18世紀に建てられた建物の中に、
      ブランド物のショップが入り、若者たちが試着している…。
      街の「変容」とでも呼べるのでしょうか。
      特にこの街は、10年前まで、共産主義の政権下にあり、
      全く別の国の有様を呈していた…といろいろ聞いていただけに、
      深くその思いを抱いたのかもしれません。
      そういえば、昨日の散歩の途中で松原先生が、
      小さなモニュメントの前に立ちどまり、
      ぼくたちに話しかけられました。
      「これ何か、わかる?」
      「いいえ」
      「ほら、血の日曜日、知ってるでしょ」
      「ええ…」
      「その時の犠牲者を追悼する石ですよ」
      そこには、犠牲者の名前と、あの日、
      1991年1月20日の刻印が記されていました。
      
      さて、録音もおかげさまで順調に進んでいます。
      昨日は、男性も加わり「混声合唱」の録音が行われました。
      場所は前日と同じ教会。
      ただ、行ってみてぼくとHIDEが驚いたのは、
      昨日と、かなり響きが変わっていることでした。
      そういえば、昨日は昼間で、今日は夜間。。。
      しっとり感は夜のほうがあるのですが、
      空間的な広がりは前日の昼間にはかないません。
      多分、空気の温まり具合いや、人の出入りなども
      影響しているのかもしれません。
      なので、昨日は、再度マイク・セッティングからやり直し!
      いろいろ試行錯誤した上で、
      前日より、約10センチほど前にセットした場所を選ぶことに
      しました。加えて、マイクの高さも少し変化させながら、
      曲ごとに対応する方法をとりました。
      昨日のプログラムは、
      ラトヴィアの民謡をベースにした曲を中心に録音しました。
      とにかく毎日、ショックの連続なのですが、
      本当にこんなシンプルで、繊細、しかも心に響いてくる世界が
      あることを知った「感動」を、
      ぼくは深いため息を漏らす以外に表現する術を知りません。
      「録音」という仕事も忘れて、たった一人の聴衆として、
      音楽を楽しんでいる…そんな時間の連続です。
      えっ、仕事ですか。
      大丈夫です、ぼくにはHIDEとヴァリスという
      ふたりの「スーパー・イヤー」を持ったスタッフがいるのですから。。
      ところで、休み時間、必要があって合唱団のメンバーに
      名前を聞きに行ったところ、彼が「ぼくの名前を日本語で書くとどうなるの」
      と聞いてきました。
      すかさず、ぼくは、平仮名とカタカナで書いて見てもらったところ、
      彼は狂喜乱舞!まわりの友達を集めて「こりゃ、スゴイ!」と
      叫んでしました。
      「ねぇ、君、日本にはもっとスゴイ漢字≠ニいうものもあるんだせ!」
      今、彼の名前の「漢字化」に励んでいます。


09/24 こんにちは。

      坂元@ビクター@リーガです。
      佐々木さんから、出発前に「日程」の件でメールをいただいておりました。
      ご連絡が遅くなり、申し訳ございません、
      拝見したところ、
      来年の2月8〜9日がベストということですが、
      それで宜しいでしょうか?
      ところで、
      「オケ」の録音と「TD」は別の日になりますよね?
      (すみません、今、先日の打ち合わせノートを持ってきていないので…。)
      問題がなければ、スタジオを一応、ブッキングしたいと思います。
      どうぞ、ご指示のほど、宜しくお願いいたします。
      追伸:佐々木さんへ/皆さんのご予定をお纏めいただけますか?


09/25 「オトコ心とリーガーの空」

      高校時代まで、九州は鹿児島の片田舎で過ごしたせいか、
      基本的にほくには「日本食」、というと聞こえはいいのですが、
      要するにご飯と味噌汁、
      そして贅沢をいえば納豆が必需品であることが、
      この数年で明らかになりました。
      特に厳しかったのが、数年前に録音で出かけた
      アメリカ・ナッシュビル…。
      わずか(!)10日間の日程でしたので、
      「毎日ハンバーガーでも大丈夫さ!」と、
      全く日本食を持参していかなかったのです。。。
      今思うと、何と恐ろしいことを。。。
      果たして、ぼくは見る見るうちに
      「枯れ木」(笑)の境地に達してしまいました。
      なんというか、身体がパサパサになるというか、萎んでくるというか。。
      そんな経験、皆さんはないですか?
      そんな時、ぼくに救いの手を差し伸べてくれたのが、
      HIDE、というよりも、同行していたHIDEの奥さん!
      「さかもっちゃん、これ、どうぞ」
      「おお、これは〜!!」
      そう、懐かしい「日本茶」と「味噌汁」だったのです。
      そのふたつを「ズズー」っと、一気にすすり、
      フーテンの寅さんのモードに戻ったぼくは、
      その後サバイバルを果たし、快進撃で録音をこなして行ったのでした。
      その時、ぼくは思いました。
      持つべきは、いい友…というより、いい友の心やさしき奥さん。
      で、今回はその時の猛省により、
      実にたくさんの「日本食」持参しました。
      ティーパックの日本茶、粉末の日本茶、
      マルコメの味噌汁、永谷園の味噌汁、
      そしてそして、極めつけは「粉末青汁!」。
      これらを駆使し、毎日体調を整えているせいか、
      今回の旅は、体調的にはイカしています。
      また、今回は、少し余裕も出てきて、
      スタジオにお茶や味噌汁を持っていき、
      デス・イズ・ジャパニーズスープ・ミソシル!プリーズ プリーズ!!
      なんて振舞う始末。。。
      人間ってゲンキンなものです。
      ところで、後日談として、HIDEが先日教えてくれたのですが、
      「あのさ、あのナッシュビルの時さ、さかもっちゃん、
      死にそうな顔してたんだぜ。
      オレと奥さんは、どうしょうーって思ってさ。
      でも、味噌汁飲んで、人が変わってホッとしたんだよ。
      だからさ、あんまり無理しないで、日本料理店に行きなよ」
      はいはい、やっぱ、持つべきは、いい友ですね。

      さて昨日は、午前中、指揮者のコカース先生のお宅にお邪魔しました。
      先生のお宅は、ぼくたちが宿泊しているホテルから歩いて5分くらいの
      場所にあるアパートメントです。
      マネージャー氏が10時15分に迎えに来てくれて、
      松原先生、HIDEと4人で訪問しました。
      表通りから一本、中に入った道をあるいていくと、
      少し年代もののアパートが目に入ります。
      そして、これはかなり年代もののエレベーターに乗って上階へたどり着くと、
      玄関でマエストロが出迎えてくれました。
      なんでも、マエストロの奥様は今、足の手術で
      入院されているらしいのですが、先生は「今、独身さ!」となぜか意気軒昂。
      伺うと、手術も無事終わり、奥様も今日には自宅に帰ってこられる
      ということです。
      よかったですね、マエストロ!
      さて、先生のお宅では、なんと朝から「コニャック」が振舞われました。
      「必ず、アルコールがでるからな」という松原先生の神託をすでに
      数日前から受けていたぼくは、先生と顔を見合わせてニヤリ。。。
      基本的に、下戸のぼくではありますが、
      昨日ばかりは、エイ、ママヨ!とばかり、
      一杯飲み干してしまいました。
      おかげさまで、帰るときには、顔は真っ赤、
      ほんの少し「千鳥足」のまま、ホテルへと帰っていきました。
      さてさて、先生のお宅には、コニャクを飲みに行ったわけではありません。
      昨日もご報告いたしました通り、
      今、ラトヴィアで進行中の「合唱大全集」の企画について伺いにきたのです。
      先生からいただいたパンフレットによれば、
      この企画は1997年から2001年までの5年間にわたって
      楽譜とCDで「この125年間のラトヴィアの合唱音楽をアンソロジーとして
      リリースする」という企画のものです。
      分野としては「宗教音楽」「世俗音楽」そして「民謡の編曲」という
      3つのカテゴリーで構成されています。
      実は、企画の進行が少し遅れているようで、
      実際には、今年の終わりに最後のリリースが行われるとのことです。
      楽譜全12巻、それにCDも12枚が最終的にリリースされます。
      日本でも、東京・恵比寿の合唱センターに楽譜とCDが揃えられつつあります
      ので、一度、是非ご覧&お聞きになって下さいね。
      そんなことで、すっかり上機嫌となったぼくは、
      先生から新しいCDを3枚購入してしまいました。
      加えて「プロジェクト」のパンフレットも少しいただきましたので、
      もし、ご希望の方がいらっしゃいましたら、お知らせ下さい。

      …録音は昨日で全ての「混声合唱」が終了しました。
      やっぱり、かなり名残惜しく、切ない気持ちです。
      えっ、どうしてかって、だって、明日は「男声合唱」の録音で
      もうレディーたちが来ないのですから(笑)!
      昨日、教会でテストをはじめて、またまたビックリ!
      前日の響きと全く違うのです。
      前日、響きが「死んでいたところ」まで今日は豊かな響きがしたり、
      ちょうどいいポイントだと思ったところが、昨日は「強すぎたり」と…。
      なので、昨日も、再度マイク・セッディングをやりなおーし!
      いやいや、凄いものです。
      「音楽は生きている」とぼくたちは割りと気安くいいますが、
      それを再現する建物も絶えず変化しているのですね。
      HIDEやヴァリスさんとも話したのですが、
      昨日は、随分暖かく、その影響が強いのでは…ということ。
      「でも、いつものことさ!」とヴァリスさん。
      日ごろ、スタジオや、エアコンの整ったホールでの録音が多いぼくにとって
      また、新たな課題が与えられた感じです。
      さて、昨日の録音は面白かったですよ!
      一昨日とはうって変わって「現代的な手法」による作品が続いたのですが、
      これがまた、教会というサウンド・メーカーを得ることによってはじめて
      効果を出すであろう「超ミラクル」なサウンドでした。
      「きっと、日本ではコンクールなんかに登場しそうな曲だね。
      でも、ホールじゃどうかなぁ…」
      …とHIDEと話していると、松原先生が
      「でも、楽譜的には、そんなに難しいものではないよ。
      アイディアがいいんだね。是非、早く日本にも紹介したいな」と。
      そうなんですね、きっと、アイディアの豊かさなんですね、
      ぼくたちが毎日ショックを受けていたのって!
      かなりの大曲のためもあり、録音はかなり難航し、
      何度も何度もリ・テイクが行われました。
      でも、その甲斐もあり、最終的には見事な演奏を収録することができたと思います。

      ホテルに帰り着いたのは、恒例の午前1時でした。
      さて、「前任地」ヴィリニュスでもそうだったのですが、
      ここリーガでも、困るのが、お空のご機嫌。
      朝は、いつもさわやかに晴れているのですが、
      午後を過ぎる頃には、曇り出し、
      夜には必ずといっていいほど、パラパラと雨がきます。
      一昨日などは、録音の最中、かなりの雨脚で雨が「中継車」を叩きつけていました。
      「だれかさんの心と同じだね」というと
      「それは、君でしょ」とHIDE。
      松原先生も無言の面持ちで「そうだそうだ」と言っています。
      3人いるうちの2人がいうのですから、
      多分、そうなのかもしれません。
      でも、ここに来て、音楽に対する熱い思いだけは
      「変わらずに持とう」と心に誓うぼくでした。


09/26 「VIVA! AVE SOL!!」

      16日に成田を出発して、今日で10日目。
      26日の朝を迎えました。
      リトアニア、ラトヴィアと続いたレコーディング
      の旅もそろそろ終わりを告げようとしています。
      月並みですが、長かったようで、短くもあり、また、その逆のようでもあり…。
      旅で感じる「時間感覚」って、本当に不思議なものです。
      レコーディングは、無事、昨夜11時30分に終了しました。
      昨日は「男声合唱」のみの録音、硬派な夜を過ごしました。
      昨日は、夕方からひどい雨。
      きっと、前日の話ではないですけど、
      「オトコ」ばかりがリーガの空の下に集まったからですね(笑)。
      普段、アベ・ソールの方たちは、
      「男声合唱」で演奏する機会はあまりないそうです。
      日本でもそうなのですが、
      日頃、内声のハーモニーづくりに勤しんでいる「混声」のテノールが
      あくまでもオレたちが主役!≠フ「男声」のトップ・テノールを歌うと、
      その培った穏やかな(?!)性格からか、
      案外、控えめに歌ってしまうのですが、
      そこは、この「歌の国人」たち、さすが堂々としたものです。
      教会での男声初録音とあって、
      我らがHIDEも試行錯誤を繰り返しましたが、
      結局、力強さをアピールするマイク・ポジジョンに決定しました。
      しかし、なんとも、感じ入るのは作品の多彩さ。。。
      時には、そのまま眠りに誘われてしまうような穏やかな曲から、
      思わず手拍子をとりたくなるような軽やかな民謡まで、
      実に興味深い録音でした。
      さすがに、つきあいが3日間ともなると、
      みんな気軽に声をかけてくれるようになりました。
      メンバーの中には、ぼくらと同じようなCD制作の仕事をしている人もいて、
      昨日の休憩時間に、彼が作ったCDをプレゼントしてくれるという、
      うれしいハプニングもありました。
      マエストロ、本当にお疲れ様でした!
      心から感謝しています。
      そのマエストロ、昨日はなぜか帰宅がジュニアと別行動で、
      ぼくに車のキィを見せて、
      「今日は自分で運転して帰るんだよ!」とちょっとつまらなさそう。
      最後まで、御年81歳とは思えない、矍鑠としたマエストロでした。
      
      さて、昨日は、お昼からリーガの日本大使館に行ってきました。
      ただ、今回は、突撃モードではなく、
      松原先生が以前からここの大使館とは懇意にされていたという経緯も
      ありました。
      大使館では、岡田裕司臨時代理大使と、
      スタッフの黒沢あゆみさんといろいろお話をさせていただきました。
      伺ったところによると、今、ラトヴィアに住む日本人は全部で12人。
      そのうち、6人が大使館のスタッフ、
      あとは日本語学校の先生と、結婚してリーガに住んでいる方だそうです。
      随分少ないんですね。
      ただ、ここのところ、日本からの観光客が10,000人近く、
      リーガを訪問するようになってきたということで、
      大使も「是非、もっともっと、この国をプロモーションしたい」と
      おっしゃっていました。
      このCDが少しでも、そのお手伝いができるといいな…と願っています。
      プロモーションといえば、昨日、音楽ファンにはいいニュースを伺いました。
      実は、なんとリトアニアとラトヴィアの「Song Festival」が
      来年、同時期に開催されるそうです。
      以前、 NHK「地球に乾杯」でエストニアのフェスティバルの模様が紹介され
      合唱関係者の間でも、話題となりましたが、
      それのリトアニア、ラトヴィア版です。
      日程は、
      リトアニアが 7月1日〜6日
      ラトヴィアが 6月27日〜7月6日
      ラスト・コンサートでは、ともに30,000人が舞台で歌い
      (もちろん野外です)、それよりさらに多くの人たちが、聴衆として聞く…。
      とてつもなくビッグなイベントです。
      ぼくもできれば、見て聞いてみたいと思っています。
      どうぞ、皆さんもいかがですか?

      …昨日、録音が始まる前、
      ヴァリスさんが、ぼくとHIDEを
      「ラジオ放送局」のスタジオを案内してくれました。
      「ラジオ」は大聖堂の目の前にある、とても素敵な古い建物の中にあります。
      第1スタジオという、一番大きなスタジオに案内してもらうと、
      中では、ルネッサンス期のマドリガーレの歌声が響いてきました。
      「あっ、モンテヴェルディだ」というと
      「そうだよ」とヴァリスもスマイル。。。
      調整室でプレイバックが行われている間、
      ぼくたちはスタジオの中へ。
      このスタジオでは、合唱、オーケストラ、ジャズ、ポップスなどなど
      いろんなジャンルの音楽が演奏されるそうです。
      世界中どこへ行っても、ここは、音楽を愛する仲間が働く場所、
      同じ風が漂ってきます。
      やっぱり、スタジオっていいですね。
      昨日は、そのまま、ヴァリスさんの車で教会へと向かったのでした。
      ところで、車に乗ったヴァリスさんがポケットから
      おもむろに取りだしたのは、なんと、ラジオのボード!
      つまり、普通、車に備え付けてあるラジオの表面のスイッチとか
      ボリュームとか、選曲チャンネルとか…です。
      あらあら不思議、それをカチッとはめ込むわけです。
      もしかすると「盗難防止」のためなのかも
      しれませんが、それは今日の夜にでも聞いてみたいと思います。

      …さてさて、顛末記をふたつ。
      教会での録音が終わり、ヴァリスさんと
      「ホテル・ラトヴィアにお茶を飲みに行こう」ということになり、
      車に分乗して、ホテルに向かうことになりました。
      ところが、HIDEと後片付けをしていると、
      もう、だれもいません。。。
      ありゃりゃ、どーしたらいいの??
      仕方なく、中継車のミック・ジャガーに似たオジサマに
      「すまんがのう、ホテル・ラトヴィアまで、運んでくれんかのう」
      と頼むと、すかさず、彼はヴァリスさんに電話。
      「こらー、ヴァリス、お前どこへ行ってんだよ、ユージとHIDEが
      泣いてるじゃねーか!!」といったかどうかはわかりませんが、
      無事、ホテルまで中継車が、文字通り「中継」してくれました。
      あー、あのまま、教会の敷地に残されていたら、どうなっていたんでしょうね。
      もうひとつ、
      今朝、今までの楽譜を整理していると、
      「え〜〜っ、混声の楽譜な〜〜い!!!」と叫んでしまった、ぼく。
      部屋も隅から隅まで、カバンの中も全部、トイレ、シャワー
      (そんなところにあるわけないのに)、
      全部くまなく探してみたけどどこにもありません。
      ど、どうしょ−。
      仕方なく、隣の隣のHIDEの部屋をノック。
      「あのさ、楽譜なくしちゃった」
      「うっそ、どうすんの。しらねーよ」
      「わりぃけど、調べてみてよ」
      「ないよ、わるわけないじゃん」
      「そういわずにさ」
      …鞄から楽譜を取り出すHIDE。
      みると既に「帰国モード」です。
      ありゃ、悪いことしたなぁ。
      そして、その顔には「今晩、ビールおごってね」
      …と書いてあります。
      「はい、どうぞ」
      「わりぃわりぃ」
      「あー、あったあったあった、あるじゃん!!」
      その時のHIDEさんの顔を写真に収めなかったことに
      ぼくは、この旅最大の後悔をしています。

 

09/26 そろそろ帰国いたします!

      坂元@ビクターです。
      いつもお世話になっております。
      今回の出張中、いろいろとご迷惑をおかけしたことと存じます。
      おかげさまで、無事に録音も終了致しました。
      明日の午前9時にホテルを出発する予定です。(日本時間、午後3時)
      メールの確認は、当地午前7時ころが最終となると思います。
      どうぞご了承下さいませ。
      28日(土)の午前着で帰国いたします。
      土曜日は午後から、日曜日は終日出社する予定でおりますので、
      なにかございましたら、FAXなどでご伝言をお残しいただければ
      幸いに存じます。
      また、メールも土曜の午後には、開けると思います。
      どうぞ、何卒宜しくお願い申し上げます。
      ありがとうございました。


09/27 「バルト街道」

      ヴィルニュスを出発したバスが、リーガへ入ろうとした時、
      ひときわ大きく聳える建物がありました。
      「あれ何か知ってる?」とHIDEに尋ねてみましたが、
      彼も知りませんでした。
      その巨大さ、迫力、重圧感、
      <街をひとつに集約せん!>
      とばかりの異様さに、ぼくはひとり息をのんだのです。
      「旧ソ連科学アカデミー」…それがその建物の正体でした。
      建築物は、具体的な「理念」になりうるのだろうか。。。。
      まさに教会が、人々の「信仰」の具現化であるように…。
      そんな想いが、あの巨大な建物を見るたびに、
      ぼくの心に去来して来ました。
      「そっか、オレ、それならモスクワで見たよ。
      でも、こんなもんじゃなかったぜ」とHIDE。
      「うん、ホントだよ。レニングラードにある
      ものは、言葉にできないくらい、でかいんだよ」と松原先生。
      なるほど、ふたりはすでに「洗礼」を受けていたのです。
      ヴィリニュスとリーガの歴史については、
      少しずつお伝えしてきましたが、
      ご存知の通り、このふたつの街、
      そしてリトアニア、ラトヴィアのふたつの国は
      約10年前までソビエト連邦の体制下におかれていました。
      現在、自由な空気が街中に溢れ、
      一見するとヨーロッパの都市と見間違えるほどの発展を
      この国々は続けているかのようです。
      明るいブティック、レストラン、ものの溢れたマーケット。
      若者たちが集い、語り合うパブ、コーヒーショップ、そしてマック。
      でも、そんな一方で、あきらかに「旧体制」の側にとり残された
      人たちも確実にいるのです。
      ヴィリニュス、リーガの街角で、そして教会の入口で佇む老女たち…。
      彼女たちはほとんどといっていいほど、
      手に無心するための小さな箱を持ち、行き交う人たちに声をかけ続けます。
      また、夜になると、外にでかけ、
      観光客を中心に金品を狙う少年たち…。
      彼らの多くは「ロシア系」の若者だといわれており、
      仕事を得ることもできずに、
      その生活への不満を、やるせない方法で解決しようと試みています。
      これが、まだ、
      このふたつの国が持つ、せつない「現実」のワン・カットです。
      もちろん、ぼくたちが住む東京、日本でも同じような現象を
      垣間見ることは可能でしょう。
      でも、それらが生まれてくる「過程」は決して同じではありません。
      自由主義の波に乗り、富を得、豊かな生活を得た人たち。
      いまだ、その波すら、目の前に引き寄せられない人たち。
      正直に告白すると、ぼくは、今回の旅で、生まれて初めて
      「街自体が持つ、凄み、あるいは怖さ」を知りました。
      この感情がどこから飛来してくるのか…、それはわかりません。
      あの老女たちの目、目、目…???
      あの少年たちの眼差し、眼差し、眼差し…???
      でもひとつだけいえること、
      それは、ぼくはこれらの街で確実に「極めて少数の外国人」でした。
      これが胸に突き刺さった時の想いは、
      きっと忘れることがないと思います。
      本当に貴重な日々を過ごすことができました。
      …そして、そんなぼくのモヤモヤ気持ちを吹き飛ばしてくれたもの、
      それも、この旅で出会った人たち、そして音楽でした。
      なぜ音楽ってこんなにも、楽しく、きれいで、
      それでいてせつなくって、心を癒してくれるのか…。
      今回ほど、それが身にしみた旅はありませんでした。
      ぼくたちは日本から何をもとめてやって来たのだろう。
      ぼくたち日本人ができることってなんだろう。
      それを考え続けました。
      HIDEとも語りあいました。
      答えは、もちろんすぐにはでません。
      でも、結局は音楽の先達たち、
      あるいは、あえていうなら人の力を超えた音の「生命たち」に対して
      謙虚に向かいあい、その喜びを多くの人と共有する…、
      そうしたことではじめて生まれる、
      本当の意味での「フレンドシップ」を作り上げることではないか、
      そう想いはじめました。
      つまりは、これらの国々が、ヨーロッパとロシア、東欧、
      そしてアジアを結んだように
      ぼくたち自身が「文化のCROSSROAS」として、
      その接着剤、触媒として生きていくことができるのではないか、と思っています。
      ふたつの古都でも「日本」をたくさん見ることができました。
      でも、それは車、時計、家電製品などであり、
      街で日本人を見かけることはほとんどありませんでした。
      今後、観光化が進み、次第にこの国々を訪れる人の数は増えていくことでしょう。
      そして、きっとその人たちの心にも、たくさんの想いが芽生え、
      新たな「CROSSROAS」が生まれていくに違いありません。
      その日のためにも、ぼくたちは音楽を通して、
      あたらしいコラボレーションの可能性を探っていきたいと思います。
      皆さまのご支援を心からお願いする次第です。
      …話が、少しばかり大きなところに入ってしまいました。
      申し訳ありません。
      さて、昨日は、滞在最終日。
      録音自体は、一昨日終わったのですが、
      いろんな事務的な打ち合わせなどがまだ残っていました。

      朝、マネージャーのフェルスバーク氏がホテルを訪ねてくれました。
      合唱団の写真やプロフィールを受け取ったり、
      事務手続きについていろいろ話し合ったりしましたが、
      なんだか元気がない様子。
      松原先生から後で教えてもらったのですが、
      どうやら彼、かなりひどい風邪のようです。
      (そのくらい気がつきなさいよ、君、君!!)
      それでも、なんとか仕事をこなすパワー、
      プロだね、フェルスバーク君!フフフ。
      またまた、風のように、
      いや今日は「風邪」のように彼が去った後、
      午後は残された時間を利用して、少し街を歩いてみることにしました。
      どうしても行きたいところがありました。
      それはリーガの街を見渡すことができる「ペーター教会」です。
      ここは、塔の内部にエレベーターが設置されていて、
      高さ72メートルのところまで、のぼることができるのです。
      ところが昨日は、例によって雨。
      HIDEと上までのぼったのはいいのですが、
      とにかく寒いのなんのって…。
      一緒にのぼってた、地方からやってきた小学生の集団と
      一緒にブルブルやってたら、
      きっと「変なオッチャン」と思われたのでしょう、
      瞬く間に笑いの種にされてしまいました。
      でも、この「こどもに溶け込む才能だけ」はあると思うんですけどね。。。
      (じゃあ、家にいる3人も宜しくね…[教会だけに、これはカミさんの声])
      かなり濡れ鼠になり、無事下山。
      最後の最後まで「水も滴るいい男」のままでした。

      最後の夜、実は、ヴァリスさんが録音をしているというので、
      「ワーグナーホール」に現代音楽のコンサートを聞きに行きました。
      プログラムは16人の合唱による「ヴォーカル・アンサンブル」と弦楽四重奏。
      当初は、何か共同でやるんだろうと思っていたのですが、
      とんでもない!、入ってみたら前半が「合唱」、後半が「弦カル」でした。
      つまり、ふたつのコンサートが前後半であったわけです。
      作品の紹介は、プログラムを読めないので割愛させていただきます(笑)。
      また、「合唱」前半は、半分ウトウトしてしまったので、
      全くご報告ができない状態、スミマセン…。
      でも、前半の最後2曲は、歌い手たちの力量が高いこともあり、
      かなり厳しい音の重ねあいにもかかわらず、
      見事な響きの世界を作っていました。
      圧巻だったのは、合唱「後半」の作品。
      これは、4人の声をマイクを通して、加工して表現するもの。
      日本でもかつて、やっていましたよね。
      で、よくよく見たら、そのソプラノを歌っているのは、
      なーんだ、アベ・ソールのメンバーじゃないかぁ!
      世の中って狭い、これも全世界共通ですね。
      後半の弦カルでは、力強い響きに、圧倒。
      ホントにでかくて、ぶっとい音なんですよ。
      荒々しいけど、表情豊かで…。
      ラトヴィアの作曲家の作品も、とてもハートフルで、
      楽しむことができました。
      とにかく、今回の旅ではじめて入ったコンサートホール。
      とても、うれしい夜でした。
      コンサート、終了後、ヴァリスさんと合流して、
      彼の車で郊外のレストランで最後の晩餐をすることになりました。
      「今日は、しっかり乗せてもらいますよ、ヴァリス!!(笑)」
      彼の車に向かう途中、またあの大聖堂の前を通りました。
      夜のライティングの効果もあって、
      本当に見事な美しさ…。
      ぼくとHIDEは、思わず立ち止まってしまいました。
      「いいよなぁ」
      「もう少しだけ、いたいよね」
      「でも、オコト同士じゃなぁ…」
      「まあな」
      その時どこからともなくチェロが奏でる
      「オンブラマイフ」が聞こえて来ました…。
      「やっぱ、音楽の街だなぁ」
      「そうだね…」
      それは、ラトヴィアとぼくたちの「別れの時」を告げる
      「白鳥のうた」のように、石の街に美しく響きわたっていました。。。

      10日間、たわごとを駄文に綴ってしまいました。
      最初は、自分の記録として思いついたことを書こうと思っていたのですが、
      あまりにもいろいろなショックを受けたこともあり、
      数人の方に読んでいただくことと致しました。
      (といっても、こちらから勝手にお送りしたので、
      ご迷惑をおかけしたことと存じます、お許しください!)
      でも、ぼくとしては、この「日誌」をお送りすることで、
      皆さんからいろいろメールを頂戴したりして、
      とても有意義な時間を過ごすことができました。
      ありがとうございました。
      この場を借りて、御礼申し上げます。

      「バルト街道」…これは松原先生がつけた名前で、
      もちろん地図には載っていません。
      それぞれ別の国家として、
      独立して前進を続ける国、リトアニア、ラトヴィア、そしてエストニア。。。
      国の諸相は違っても、
      その底を通奏低音のように流れるひとつの「メロディ」が、
      そして、3つの国と世界をつなぐ文化の街道がきっとある!
      そう、ぼくは今、実感しています。
      ぼくたちは、その「メロディ」を「街道」に託して
      探す旅をもう少し続けたいと思っています。
      どうぞ、今後とも、皆さまのご助言とお力添えを
      お願い申し上げる次第です。
      エストニアに向かう「街道」は来年1月、もう目の前です。
      感謝をこめて…
      坂元勇仁 リーガにて

 



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